研究会 活動報告(甲府城と武田神社(1))

第五回研究会を開催。

 

戦国最強と呼ばれ、「風林火山」の旗印のもと、
騎馬軍団を率いた甲斐の名将といえば武田信玄。

今回は、会員2名と私の3名で、

軍神・武神を訪ね、山梨県の甲府へ行ってきた。

まずは甲府城に到着。
甲府城は別名、舞鶴城、一条小山城とも呼ばれている。

 

当然、武田信玄の城だと思いきや、

-------以下、甲府城研究室(埋蔵文化財センター)甲府城の歴史より抜粋---------
天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、
本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、平岩親吉が城代になりました。
豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され、
甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになりました。
秀勝の移封後は、加藤光泰が、光泰が文禄の役で没すると
浅野長政・幸長の支配となりました。

発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、
豊臣家の家紋瓦が出土していることから、築城はこの頃と考えられています。
関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、
慶長12(1607)年には幕府の直轄地となりました。

 

http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/ko-fu_zyou/koufu_jo_new/rekisi.html

そうだったんだ!

ボランティアで甲府城を案内しているお年寄りに説明をお聞きすると、
明治に入り、世は一気に西洋化を進め、甲府城も取り壊しの憂き目にあう。

まず内城全体が勧業試験場として利用。
さらに、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置。

また、山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、
中央線敷設に伴い北側の屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小。

お年寄りが子供の頃は、城跡北側の線路脇には、線路埋設工事の資材や
石炭が山積され、衛生的にも汚く、荒れ放題だったとのこと。

甲府中学校の移転で、お城の西側、旧追手役所跡にあった
県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、
同時にその西側、南側の堀は完全に埋められた。

城の東西は道路で分断され、西側は山梨県庁が建てられ、
その周りも市街地になってしまった。

もったいない・・・。

お年寄りも、どこか寂しそうに語っていたのが印象的だった。

最後に、4月7日~9日に、信玄公祭りが開催されるので、また来て下さいと
しっかり宣伝もあり、とても有意義な甲府城見学ができた。