研究会


極真空手 体験

久しぶりに会員が集まり、改めて武術の研究を再開していくこととなった。
今回は、会員さんの一人から極真空手の体験に参加したいとの依頼を受け、恐る恐る道場の門をたたいた。
 
中に入ってしまえば、氣さくな方ばかりで、話しかけてくれたり、色々と氣を使って頂いた。

練習は、柔軟体操の後、突き、蹴り、受けの基本。

移動しながらの突き、蹴り、受け。

動きが良くわからず、まるで変な踊りを踊っている怪しいオジサンのよう。

続いてキックミットを持った道場生を相手に、実際に突き、蹴りを練習。

つい本気になり、左拳が内出血。

体験なのに、本格的に稽古をつけて頂き、大満足!
貴重な経験をさせて頂き、ありがとうございました。

練習後は、永らく身体を動かしていなかったこともあり、あちらこちらが痛くなったが、ストレスがすぅっと無くなったようで氣持ちがよい。

何事もやってみなければわからない。

今度は、違う流派の空手の体験に行き、武術の研究をしていきたい。

うぅ。。 身体が持つか・・・

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研究会 活動報告(出雲大社相模分祠)

第七回研究会を開催。

 

私を含め3名の会員と、

神奈川県秦野市にある、出雲大社相模分祠に参拝。

出雲大社(いずもおおやしろ)は、『日本書紀』、『古事記』等、
日本国の創成期、神話に出てくる永い歴史がある神社。

出雲大社 公式ホームページより抜粋--------------------
http://www.izumooyashiro.or.jp/

出雲大社と大国主大神

御祭神

八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。
そして、その中心が大国主大神様をおまつりする出雲大社です。

大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。

国づくり

その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。
それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づぐり”の大業です。
大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。
この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。
今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。
そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。

御鎮座の由来

大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。
大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。
そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。
また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。
と申されました。
こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。
そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。

この荘厳な御社は天日隅宮を始め様々な名称で称えられてきましたが、現在は「出雲大社(いづもおおやしろ)」と申しております。


以下、出雲大社相模分祠 公式ホームページより抜粋--------------
http://www.izumosan.com/index.html

沿革

出雲大社相模分祠は、明治21年(西暦1888年)に、島根県御鎮座の「出雲大社」第80代国造・千家尊福公の要請によって、当地累代の神職であり、報徳家であった草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとします。

当初の御鎮座地は現社地から離れた渋沢峠でしたが、昭和50年(西暦1975年)に現社地に御遷座なさいました。
以来、御社殿の増築、さらに境内地を拡張し大規模な植樹を施す等、益々その尊厳さを増して今日に至っております。

御祭神

出雲大社相模分祠 ご祭神

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)
合祀祭神28柱(兼務神社23社のご祭神)

大国主大神 (だいこくさま)は素戔嗚尊(すさのを)の御子神で御別名を、

大己貴大神(おおなむちのおおかみ)
大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)
八千矛大神(やちほこのおおかみ)
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)
農耕祖神(たづくりのおやがみ)
幽冥主宰大神  (かくりよしろしめすおおかみ)


…等と申し上げ、その御事跡は『日本書紀』、『古事記』、『出雲国風土記』で国土開拓の神、国譲りの神、または「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」の自愛の神として言い継ぎ語り継がれ、御利益に至っては商売繁盛の神、地鎮の神、農耕の神、医薬の神、子授けの神、安産の神、教育学芸の神、厄除けの神、八方除けの神等と人間生活の全般にわたる広大なものであって、このことから「国中第一の霊神」すなわち「天下でもっとも御利益のある神」と称えられ、特に縁結びの神としての御利益は、世にあまねく知られています。 

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日本の悠久の歴史を感じ、目に見えない世界を司る大国主大神様(だいこくさま)からエネルギーを頂いた一日でした。

今度は島根の出雲大社に参拝しよう。

ありがとうございます。


 

 



研究会 活動報告(大國魂神社)

第六回研究会を開催。

 

クリスマスイブの日曜午後。

私を含め3名の会員と、
東京都府中市にある大國魂神社に参拝。

 

大國魂神社は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を
武蔵国の守り神としてお祀りした神社。
この大神は、出雲の大国主神と御同神で、
大昔、武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、
又、医療法やまじないの術も授けられた神様で、
俗に福神、又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様とのこと。

以下、大國魂神社ホームページより抜粋
https://www.ookunitamajinja.or.jp/
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御由緒

当社のご祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]で
武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。
この大神は 素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神で昔この国土を開拓され、
人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された。

当社の起源は、人皇第十二代景行天皇41年(西暦111年)5月5日
大神の託宣に依って造られたものである。
出雲臣天穂日命[いづものおみあめのほひのみこと]の後裔が
初めて武蔵国造[むさしのくにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、
代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。

その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、
大化の改新(645)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、
当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。

又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、
これが即ち武蔵総社の起源である。

後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ]
(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮
とも称せられるようになった。《※注》

寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、
その室、政子の安産の祈願が行われた。
文治2年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、
また貞永元年(1232)2月に将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。

又、天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸へ入城してからは
武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、
社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。

正保3年(1646)10月、類焼により社殿は焼失したが、
寛文7年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。
形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであり、
慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。本殿は都文化財に指定されている。

明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同7年(1874)県社に列し、
同18年官幣小社に列せられた。

当社はもともと大國魂神社と称したが、
中古以降、武蔵の総社となり、又国内著名の神六所を配祀したので
「武蔵総社六所宮」の社号を用い、
明治4年(1871)にもとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。

当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵の国はもちろん、関東一円に亘っている。

5月5日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、
当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所へ神幸するので、
俗に「くらやみ祭」といわれている。
昭和36年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。
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冬空の中、初詣の準備で参道に提灯や屋台の設置進められている。
また、大安吉日のため、結構式を挙げる方とすれ違う。

人が多く賑やかだが、凛とした空気に包まれている。
流石、太古よりこの土地をお守りしている神社だ。
強力な波動を発している。

参拝の後、社務所で御朱印を頂いた。

身も心も清められ、清々しい気分に浸りながら、
日本文化の素晴らしさを味わった。

ありがとうございます。



研究会 活動報告(甲府城と武田神社(2))

昼食後、一路武田神社へ。

 

武田神社は、甲斐の名将・武田信玄公を祀った神社で、
大正8年(1919)に創建。
この地は、元来、信虎・信玄・勝頼の武田家3代が60余年にわたって居住した
躑躅ケ崎館[つつじがさきやかた]跡(国指定史跡)に鎮座。
ご利益は「勝運」が有名で、「人生そのものに勝つ」「自分自身に克つ」と伝わる。
躑躅ケ崎館は戦国大名の館としては全国最大規模を誇るものとのこと。

武田信玄は、その迫力ある風貌や強すぎる武将、そして父親である武田信虎を
駿河に退隠させる等の為、私の中では「恐ろしい悪者」のイメージ。

しかし、武田神社の御祭神武田信玄の説明書きを読むと・・・
21歳の時に国主となって以来30年余、諸戦に連戦連勝を重ねるのみならず、
領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、
領民にも深く愛されました。
而して、現在でも県民こぞって「信玄さん、信玄さん」と呼びならわし
敬慕の情を表し、郷土の英雄として誇りともする所以であります。

とあり、戦以外にも大活躍をされた人物だったことがわかった。

http://www.takedajinja.or.jp/index.html

https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/index.html

宝物殿や境内を見学、散策し、遠い戦国時代に思いを馳せる。

また、清和源氏の流れをくむ甲斐武田家から会津へ伝えられ、
大東流合気柔術の中興の祖といわれる武田惣角のことを思い出す。
史実はどうなのか、私にはわからない。
が、戦国時代という戦乱を生きた人々がここにいた。

つくづく平和な時代に生まれてよかったと思う。

「金運」のご利益があると言われている「三葉の松」の黄金色(こがねいろ)になった
落葉を拾い、武田神社を後にする。

夕食は、山梨名物の「ほうとう」だ!

 

120年前の古民家を改装して郷土料理をだしてくれる、
甲州完熟屋に向かう。
山梨県の農業生産法人ホトト農場の直営飲食店とのこと。

http://kanjyukuya.jp/

山梨・甲府を堪能し、戦国武将の生き様にふれた一日だった。

 


研究会 活動報告(甲府城と武田神社(1))

第五回研究会を開催。

 

戦国最強と呼ばれ、「風林火山」の旗印のもと、
騎馬軍団を率いた甲斐の名将といえば武田信玄。

今回は、会員2名と私の3名で、

軍神・武神を訪ね、山梨県の甲府へ行ってきた。

まずは甲府城に到着。
甲府城は別名、舞鶴城、一条小山城とも呼ばれている。

 

当然、武田信玄の城だと思いきや、

-------以下、甲府城研究室(埋蔵文化財センター)甲府城の歴史より抜粋---------
天正10(1582)年に武田氏が滅びると、甲斐は織田信長の領国となりましたが、
本能寺の変後は徳川家康の支配下となり、平岩親吉が城代になりました。
豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移され、
甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が支配することになりました。
秀勝の移封後は、加藤光泰が、光泰が文禄の役で没すると
浅野長政・幸長の支配となりました。

発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された瓦、
豊臣家の家紋瓦が出土していることから、築城はこの頃と考えられています。
関ヶ原の戦後に、甲斐は再び家康の支配下となり、
慶長12(1607)年には幕府の直轄地となりました。

 

http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/ko-fu_zyou/koufu_jo_new/rekisi.html

そうだったんだ!

ボランティアで甲府城を案内しているお年寄りに説明をお聞きすると、
明治に入り、世は一気に西洋化を進め、甲府城も取り壊しの憂き目にあう。

まず内城全体が勧業試験場として利用。
さらに、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置。

また、山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、
中央線敷設に伴い北側の屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小。

お年寄りが子供の頃は、城跡北側の線路脇には、線路埋設工事の資材や
石炭が山積され、衛生的にも汚く、荒れ放題だったとのこと。

甲府中学校の移転で、お城の西側、旧追手役所跡にあった
県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、
同時にその西側、南側の堀は完全に埋められた。

城の東西は道路で分断され、西側は山梨県庁が建てられ、
その周りも市街地になってしまった。

もったいない・・・。

お年寄りも、どこか寂しそうに語っていたのが印象的だった。

最後に、4月7日~9日に、信玄公祭りが開催されるので、また来て下さいと
しっかり宣伝もあり、とても有意義な甲府城見学ができた。

 

 


研究会 活動報告(小田原城)

第四回研究会を実施。

 

今回は、会員2名と私の計3名で

戦国武将の北条氏で有名な小田原城へ。

 

以下、小田原HPより抜粋
小田原の歴史
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。
城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。


15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。
小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。
しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。
その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。


貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。
小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。
後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。
しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。
続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。


小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/


現在は、震災に耐えるよう平成の大改修を終え、展示物も充実。

天守閣内や常盤木門、歴史見聞館等、見どころ満載だった。

甲冑や日本刀はいつ見ても迫力があり、胸に迫るものがある。
それは、身を守るものであり、人を殺すものである。
が、同時に武士の魂が宿る芸術品でもある。

実際に甲冑を着、帯刀している武士を目の前にしたら・・・
恐ろしくて身動きができなくなるだろうな。

また、同時に武士の精神力の凄まじさをヒシヒシと感じた一日だった。



研究会 活動報告(三笠公園)

第三回研究会を実施。

 

今回は、会員2名と私の計3名で

神奈川県横須賀にある、三笠公園の記念艦「三笠」を見学。

明治時代。
日本は西洋化を一気に推進するも、まだ武士道精神が残っていた時代。

帝国化する西洋に対抗するべく、日本も帝国主義に走り領土を広げ、日清戦争を経て日露戦争へ。

その日露戦争(1904年に開戦)に決着をつけたのが、
1905年5月27日から28日にかけて行われた日本海海戦。
そこで日本の聯合艦隊旗艦を務めたのが戦艦三笠です。

三笠は日清戦争後、ロシアに対抗するための「六六艦隊計画」の
一環として建造された艦で、完成前に海軍の予算が尽きてしまったため
不法流用までして英国ヴィッカース造船所で作られました。
その期待に応え、日本海海戦で東郷平八郎率いる三笠をはじめとする聯合艦隊は
当時世界一と称されていたロシアのバルチック艦隊を完膚無きまでに圧倒して殲滅。
制海権を確保して日本を勝利へ導きました。

この戦いは、黄色人種が初めて白人に勝利した戦争となり、
日本の国際的地位を「五大国」の一員へと押し上げる結果となります。

また、この勝利は植民地支配を受けているアジアの国々を
大いに勇気付けることとなりましたし、
西洋人からも東郷の見事な戦いぶりを「東洋のネルソン」と呼んで賛美するなど、
世界中から大きな反響を得ることとなっていったのです。

日露戦争の勝利により、我が国は独立を全うし国際的地位を高め、
また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に
希望を与え、独立の気運を促進しました。

当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは、
日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をしたと自伝で述べ、
また、次のように子供に話したと伝えられています。
「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。
 アジアの一国である日本の勝利は、
 アジア全ての国々に大きな影響を与えた。
 私は少年時代、どんなに感激したかをおまえによく話したものだ。
 たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が同じ感激を経験した。
 ヨーロッパの一大強国は敗れた。
 だとすれば、アジアは昔、度々そういうことがあったように、
 今でもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。」

さらに、中国の革命運動の指導者であり「建国の父」と仰がれている孫文も、
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
 この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
 アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」
と述べています。

これに加え日本軍は、海戦で海に投げ出されたロシア兵を残らず救助し、
日本人が戦争中のため十分な食事が摂れない中、
捕虜たちには十分な食事を与えるなどの紳士的な対応は現代でも高い評価を得ている上、
捕虜となったロシアの提督に対して、平八郎自ら見舞いに訪れるなど、
日本人の、そして平八郎の人間性の高さや武士道精神を示す逸話が数多く伝わっていることも、
この戦争の特色のひとつに挙げられるでしょう。

1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決まった「三笠」ですが、
現役復帰できない形での保存が許されて横須賀に保存されました。

第二次世界大戦後は艦上にアメリカの軍人向けに「キャバレー・トーゴー」
や水族館等の遊興施設が作られたり、艦上構造物を持ち去られてしまうなどひどい状況でした。
遊興施設は一時賑わいを見せたものの次第に客足が遠のき、
戦艦三笠は手入れされることなく放置され、
錆まみれの哀れな鉄屑同然になってしまいました。

その後、復元保存運動のおかげで無事ほぼ完全な形に修復され、
現在も横須賀に保存されています。

戦艦三笠は、艦首には輝く菊花紋章が掲げられ皇居に向き、
その遥か遠方にはロシアがあり、今でもにらみを利かせている。



記念艦「三笠」公式ホームページ
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/index.html


研究会 活動報告(町田時代祭り)

もりの古武術活法研究会の第二回研究会を行いました!

会員の方1名と私の2名で、東京都町田市で開催された、町田時代祭りを見学。

到着時間が時間が遅くなり、流鏑馬しか見られませんでしたが、
凄い迫力でした。

馬はサラブレッドではなく、

日本在来馬の道産子(北海道和種)と木曽馬(長野県)の希少2種。


馬具も江戸時代に使われていたものを使用した由緒ある流鏑馬でした。


しばらく見学していると、私淑する日本古武術界の重鎮、島津先生のお姿が!

お声をかけ、写真をご一緒させて頂きました。

 



島津先生は、
柳生心眼流竹翁舎 主宰、森重流砲術研究会 会長、筋整流法最高顧問
をされており、この町田時代祭に数多くの門弟を参加させています。

島津先生の略歴
昭和13年生まれ。
昭和30年、柳生心眼流狩野派・佐藤派、相沢富雄師範に師事し、相伝を受ける。
昭和49年、柳生心眼流竹翁舎を開設し、以来、長年に亘り修行と研鑽に努める。
古武道雑誌「秘伝」の名付け親として編集顧問を務め、日本武術界の重鎮として活動を続けている。

緊張して、突然お声をかけたにもかかわらず、気さくに応じて頂きました。
ありがとうございます。

改めて、日本の文化・古武術に感動しました。


研究会 活動報告(ザ刀剣 千年の匠の技と美)

もりの古武術活法研究会の第一回研究会を行いました!

会員の方2名と私の3名で、東京・八王子にある美術館で開催されている
刀剣展に行ってきました。

日本の古武術といえば剣術。
武士の魂がやどる日本刀。

 

一千有余年の歴史と伝統を持つ日本刀を真近に見、
その美しさと、残忍に光る輝きに身がすくみました。

刀を手にした武士(相手)と対峙したとき、いったい何ができるだろうか?
きっと、身動き一つできないだろう。

人を殺める道具を常に身に付け、人を殺める技を身につけ、
それでいて、それが普通の生活。
だから武士道が必要だったのだろう。

今の日本ではとうてい考えられない。
だから今、武士道精神が失われつつあるんだろう。

そんなことを考えさせられた研究会でした。